「キュンパス」雑感

 松本から日帰りで盛岡に行く、なんて考えたこともありませんでした。往復で1519.6km、運賃は自由席を駆使しても36,300円。仕事の都合の出張ならともかく、旅行としてはあまり現実的ではない。しかしこの2月から3月にかけては、このような「普通に考えたら無茶」な行程で、主に東北方面へ旅に出た人が多かった。それは、JR東日本が1日10,000円で新幹線を含めて管内全線乗り降り自由という破格の切符を発売したから、だったのです。

キュンパス

旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス。
2月14日から3月14日までの平日限定で、使用の2週間前までの購入で利用可能という切符。春の旅行の計画をたてようと思ったはいいものの、松本から日帰り・鉄道で行ける範囲の場所は行き尽くしてしまった感があった。そう思っていたところにキュンパスの発売を知り、じゃあこれを使って連れ合いの友人がいる盛岡へ、ということに相成りました。

正確には盛岡行の前に東京の実家に帰省していたため、東京→盛岡→松本という行程。松本から来た連れ合いとは大宮で落ち合いました。岩手県というとかなり遠いイメージがあったのですが、大宮を出てから2時間とかからずに到着。東京の家を出てからわずか4時間しか経っていないのに、盛岡冷麺を食べ、北上川を渡り、目の前に岩手県交通のバスが走っているというのは、なんだか不思議な感覚がありました。

連れ合いの友人と会うことが主たる目的でもあったので、本屋さん、民芸品店、歴史文化館などを巡って滞在6時間ほどで帰路へ。22時すぎの終バスに間に合う時間には松本に帰着。

楽しかったのは確かなのだけれど、なんだか「旅をした」という気分にはならなかった。

手許の「新明解国語辞典」第七版で「旅」の項目を引くと、「①判で押したような毎日の生活の枠からある期間離れて、ほかの土地で非日常的な生活を送り迎えること、②差し当たって用事のために遠隔地に赴くこと」とあります。②を旅に含めるのならば、確かに旅をしたとは言えるのだけど、プライベートの、観光と結びついたような旅で求められるのは、おそらく①のほう。今回の盛岡行きについて言えば、「旅をした」という感覚を得るために必要とされる、生活の枠を離れる「ある期間」が1日ではやや不足していた。また、ほかの土地で非日常的な「生活」を送った、と実感するためには、食べてその地で寝る、つまり泊まるということが必要で、やはり日帰りであったことが「旅」と思えなかったことの原因だった。手許の辞書に拠るとそういうことになるのではないかと思います。そういう行程を組んだのは自分だけれど、「キュンパス」という切符がそういう「短時間で」遠くへ出かけることを志向している、少なくともそういう側面はあるように思うのです。

切符そのものの話をするならば、やはり比べてしまうのが「青春18きっぷ」。青春18きっぷは5枚綴りで、1日2,410円でJR東日本に限らずJR全線の普通列車が乗り放題。新幹線や特急電車に乗れない分、鈍行で時間をかけて旅をするのに向いている切符です。

以前、大学の授業で「あがる」という語と「のぼる」という語の意味の違いを考えたことがあります。どちらも「上方向に移動する」という点では共通している。しかし「のぼる」が上に移動する過程、その道中に焦点を当てているのに対し、「あがる」は過程や道中には関係なく、ただ上方向に移動し到達すること、そのこと自体を意味する。そこに双方の違いがある、という趣旨の説明でした。登山をする人は山に「のぼる」のであって決して「あがる」ことはないけれど、ロープウェイで山頂に行き展望を楽しむだけの場合は山に「のぼる」とは言わず「あがる」を使う、と言えばイメージがしやすいでしょうか。

この「あがる」と「のぼる」の対立を想定すると、青春18きっぷは「のぼる」的な切符で、キュンパスは「あがる」的な切符である、と言うことができるように思います。青春18きっぷは目的地に行くまでの過程、道中を楽しむことを志向している。のんびり車窓を眺めたり、鈍行ゆえに各駅の駅名が放送され、さまざまな土地の地名に触れる機会がある。時間をかけて行くということが、旅をしている実感を与えてくれる。一方でキュンパスは、その道中を楽しもうという発想とは疎遠で、いかに時間をかけずに目的地に達するか、という考えと親和性がある。

まとまった休みを取ることが難しい人が多い環境のなかで、こうした短時間性を志向した切符が発売されるのはある意味で当然の流れなのかもしれません。そして、そうした環境においては、時間をかけずに目的地に行き、観光を楽しんで、また時間をかけずに帰ってくる形でも、それを旅だと思える人が多くなっているのかもしれません。だけど、少なくとも私は、時間をかけない移動では旅をしている実感が得られない。実感が得られないと、目的地で過ごした時間がいくら楽しくても心残りがある。「判で押したような毎日の生活の枠から離れる」ときくらい、少し余裕をもって、ああ、いま旅をしているなあ、という気分を楽しみたい。そう思います。

帰ってきてからこの話を何人かにしたところ、皆揃って「まあそうだろうね」という反応。たしかに旅の気分が味わいにくいことは行く前から薄々予想できていたのだけれど。取りあえず「キュンパスは自分にはあまり適さない」ということを、それこそ「実感」できたという点では良い経験になったのではないかと思います。

以上、キュンパスにときめかなかったお話でした。

岩手山と東北新幹線はやぶさ号

(No.18)

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