タイトルのこと

先の記事にも書いたように、以前のブログは「西武鉄道日記」という名前でやっていました。これは西武鉄道の話題を中心にあれこれ書くブログということで、極めて分かりやすいタイトルでしたが、大学進学を機に西武沿線を離れて松本で暮らすようになってからは、たまの帰省の際に西武鉄道の話題に触れることはあっても、それが中心というわけにはいかなくなりました。松本に来て、いまはアルピコ交通上高地線を中心に(というか、ほとんど上高地線ばっかり)撮っているので、以前と同じような名前の付け方をするとなると「上高地線日記」になるわけです。ですが、上高地線専門の情報発信という点では越えられない先達がいるし、「上高地線日記」としてしまうと、上高地線のこと以外について記事を書きたくなったときに、それがどうしても例外的な目で見られてしまう気がしたので、そうならないために特定の路線やテーマに拘らないタイトルを探していました。

今年4月、私ははじめてオリジナル写真集を作りました。写真集といっても50ページ足らずの小冊子で、出版社を通したわけでもなく、いわゆる「ZINE」のような個人制作物です。そこでは上高地線と人を題材にして、タイトルに「そこに人がいるから」と付けました。言わずもがな登山家ジョージ・マロリーによる「そこに山があるから」の捩りですが、私が感じる上高地線の一番の魅力、それが他ならぬ沿線の「人」であることを示す意図でこのタイトルを選びました。しかし翌々考えてみると、「そこに人がいるから」というのは私が上高地線に通う理由であるにとどまらず、ひろく、鉄道が走っていることそれ自体の理由でもあるし、私が写真を撮る理由、もっと言えば表現活動を行う理由(というよりはその前提)であることに気がつきました。そこに人がいるからこそ、表現活動が成り立つ。

写真を撮ること、そして言葉を紡ぐこと。「自己満」と言われる他の誰にも見せないような写真にも、他ならぬ自分という人が表現の受け手として存在しているし、他人には見せられない個人の日記であっても、そこには自分という読み手がいます。あたりまえのことすぎてあまり意識されることがないけれど、「受け手不在の表現活動」なんてものはないと私は考えています。そうであるならば、私がブログを再び書こうと思ったのも「そこに人がいるから」ではないか。

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しかし敢えて今回は少しだけ表現をかえてみました。写真集を手に取ってくれたある方から、「『そこに人がいるから』と言うより『そこに誰かいるから』なんじゃないかと感じた」という感想を戴いて、まさにその通りだと思ったからです。

「人」という言い方と「誰か」という言い方を比べたとき、「人」というとなんだか「人類」のように、自分には(一生涯に亘って)関係のない人々までも含まれている感じがするけれど、「誰か」だと、仮にいま、あまり自分と関わりがない人であっても、(どんな形であれ)いつか自分とつながる可能性を少しでももっている、そんなイメージの違いがあるように思うのです。「人」は「ひと」のままでも、「誰か」は「あなた」になり、「きみ」になりうる。三人称が二人称になる可能性がある。私は先の感想をそのように解釈しました。

そういう意味で、このブログを書くことで、少しでも読み手である「誰か」と繋がり、何かを分かち合うことができたらいいな、そんな願いも込めて。

「そこに誰かいるから」

戴いた感想からフレーズをもらって、このブログをはじめます。 

西武鉄道車内


(No.2)

コメント

  1. 親子でファンです2023年12月27日 23:44

    読ませていただきます。嬉しいなーぱちぱちぱち

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  2. ご覧いただきありがとうございます。お楽しみいただけると幸いです!

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